1. ヨブ記1-21章「苦しみの中の嘆き」

事前課題

ヨブ記1-21を読む。

アウトライン

1. イントロ: ヨブ記1:21 「苦しみの中の嘆き」

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」

  • ヨブ記は、場所は「ウツの地」(1:1)、おそらくエドムから、ユーフラテス川に至る、ヨルダンのほうの地だと言われている。そして、伝承では、ヨブは、エドムの第二の王「ヨバブ」(創世36:33)ではなかったかと思われる。
  • ヨブ記のテーマは、「全能者、主権者であられる神が、正しく、善なる神が、どうして人々に苦しみを許されるのか?」という、根源的な問いかけである。主を恐れ、罪を犯さなかった、落ち度のないヨブに、財産、子供たちを一気に失い、ついに、重い皮膚病にかかるという、痛みが押し寄せた。
  • 彼を慰めようとしてきた友人と、ヨブとの言い争いが、ヨブ記の多くを占める。その言い争いの中で、ヨブの発する言葉に、その根源的な問いから、メシアへの思いが湧き出ているところが、興味深い。

2. 1-2章 主なる神とサタンとの言い合い

  • 構成1-2章 主なる神とサタンとの言い合い
    • 3-14章 ヨブと友との言い合い 第一弾
    • 14-21章 ヨブと友との言い合い 第二弾
    • 次回22-31章が、第三弾になる。その後、第四の者エリフが語り、38章以降で、主ご自身が現れて語られる。
    • 3ラウンドの、友人との言い争いには、三人の友人がそれぞれ問いかける。それにヨブが答える。
  • しかし、ここで大事なのは、今、話した通り、1-2章ですでに神ご自身に対してサタンが挑みかかり、神とサタンとの言い合いが繰り広げられていることだ。ここは、ヨブや友人たちが知るところではなく、ついに神は、ヨブに最後までそのことを明かされなかった。ここが味噌であろう。信仰と忍耐を神が試しておられるのである。
  • サタンの挑戦は、「主がヨブに良くしてくださっているから、ヨブは主を恐れているのだ」ということ。ヨブは、主は与えるだけでなく、取られる方だということで、応答し、主はそれをもってサタンを責められる。しかし、体に触れたら、ヨブは神を呪うといい、それで主はそのサタンの申し出を許された。
  • 体における苦しみは、実に私たちに大きな挑戦を与える。ただ死ぬだけならば、まだよい。しかし、死んでおらず、痛みが続くというところに、辛さがある。その痛みに対して、ヨブが何度となく、全能者のなされていることとして、嘆きを吐露している。しかし、そこで見えてくるのは、傷の人、病の人として来られたキリストだ。肉体における傷が、いかにその問いかけに応えているかが分かる。
  • 友たちの問いは、「あなたが、これほどの苦しみを受けているのは、何か隠された罪があるはずだ」というもの。そうでなければ説明がつかない、ということ。ところが、ヨブには、当然ながら心当たりのあるものがない。だから、自分の潔白さを訴えている。この繰り返しが続き、徐々に、それが激しさを増していく。

3. 3-14章 ヨブと友との言い合い 第一弾

  • 3-14章のヨブと友との言い合い(第一弾)を見ると、まず3章でヨブが、自分の生まれた日を呪った。このような苦しみを受けることに、実存的な苦しみを受けたのだ。このような苦しみを受けるものなら、そもそも、なぜ生を受けたのか?という問いである。これは、イエスがラザロの死について、共に流れ、憤られたのと同じ理由である。
  • エリファズは4-5章で、自分の経験から、不法を犯しているからそうなっているのだということ。だから、あなたが悟れば、主は今にでも回復させてくださることを告げる。しかしヨブは6-7章で、友の慰めが受けられないことを嘆き、全能者が自分を苦しめていることを吐露している。自分が全能者の前で、どうすることもできないと圧倒されている。
  • 神が圧倒的な全能者であるということ。それに対して、人間は苦しみをどう取り扱えばよいのか?という根源的な問いをしている。
  • 8章でビルダデが、先人に従えば、神を恐れない者がこのような苦しみにあうとする。エリファズが年長者で、経験豊富なのに対して、ビルダデは過去の人びとを取り上げる。この二つは、どちらも苦しんでいる人々に対して私たちにしてしまう助言だ。
  • ビルダデに対して、9-10章でヨブが、自分の限界に対して、どうやって全能者に訴えることができるのか?という問いに対して、こう言っている。「9:32-33 神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」ここに、キリストの待望があるのだ。神と人の間をつなぐ、仲裁者の存在だ。
  • そして11章で、三人目の友人ツォファルが出てくる。彼は経験もなく、昔の賢人もなく、ただ知識をひけらかしているようだ。そのためヨブは、13-14章で「そんなことは分かっている」と答える。そして、神の知識についてざっと披露した後で、自分が苦しんでいるところでの嘆きをまた吐露する。

4. 14-21章 ヨブと友との言い合い 第二弾

  • 第二弾で再びエリファズ、ビルダデ、ツァファルが語るが、あからさまに「あなたには咎がある」と、ヨブが悪人であることを責め立てていく。15章でエリファズが語った後で、ヨブが16-17章で、「人をみじめにする慰め手だ」としてなじる(16:1)。そして、これまでの苦しみに加えて、友人を通しての苦しみをなぜ神は許されるのか、と追加して嘆いている。
  • 18章でビルダデが、より一層ヨブを責め立てるので、ヨブは19章で、この体の痛みだけではなく、友や近しい人たちが自分から離れていくという、新たな痛みを語っていく。しかし、そこで、自分はこの体が滅んだら、復活して到来する主をこの目で見ると、大胆に告白したのだ。「19:25-27私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」
  • このように、根源の問いかけによって、初めは仲裁する方、つぎに復活を与えられる方を告白し、それが見事にキリスト待望になっているのだ。
  • 20章でツァファルの問いかけに対して、21章でヨブは、これまでの責め返す姿勢ではなく、「あなたがた、もっと周りを見なさい。悪人が事実、栄えているのだよ。もちろん、あなたがたと同じ神の知識を持っているが、こうした現実に対して、あなたがたはどう答えるのだい?」というような、問いかけをしているのだ。大きな挑戦だ。
  • 私たちの信仰は、現実的なものに立脚していないといけない。神の知識を内輪で振りかざしているのでは、真実な問いに答えることができない。しかし、ヨブがうめきの中で、キリストを待望したように、キリストにその答えがある。

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